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防災インタビューVol.5

阪神淡路大震災での体験

放送月:2004年5月
公開月:2006年12月

中川 和之 氏

時事通信社Web編集部 次長

長年の気象庁担当を通じて地震・火山を学び、(社)日本地震学会の委員会活動として「地震・火山子どもサマースクール」を毎年開催しています。記者としてだけではなく市民の立場から、災害援助のあるべき姿を模索し、神戸市の研究会委員や厚生労働省の専門分科会委員なども務めています。また、NPO法人CODE海外災害援助市民センター監事や東京いのちのポータルサイト理事を務め、ボランティアとしても活動しています。

その日のうちに被災地に

私の実家は被災地の兵庫県芦屋市にあります。当時、横浜市にいたのですが、6時前に会社から電話があり、すぐ実家に電話したところ、親が電話に出ました。たまたま元気な声で出たもので、まだあまり情報がない中で、私は安心して会社に出てしまったのですが、会社に出て行く途中のラジオで、とんでもないことになっているのを知り、その日のうちに被災地に入りました。

私は取材する立場の人間で、物事があればそれを文字に書くということが仕事で、いろいろな現場をどうやって文字にするかということを考えて仕事をしてきた人間だったのですが、あのときはちょうど震度7ゾーンといわれている一番ひどかった地域に入り、これは文字に書けないなと思いました。空気を自分の身体に染み込ませておくしかないだろうと。それが、今、私がずっと防災のことをやり続けている原点になっています。

1995年1月28日、時事通信神戸総局前で

もともとは気象庁詰めを長くやりまして、科学記者として地震を取材していました。それもあって、地震があった際に、6時前に会社から電話があって、たたき起こされたのです。そのまま神戸に入り、最初2週間ぐらい現地にいたのですが、これはもう5年や10年、なかなか復興しないだろう、仮設住宅は10年はあるだろうと感じました。しかし、現実的には仮設住宅は5年でなくなって、復興のスピードは速かったわけです。そこにはいろいろな神戸の人たち、被災地の人たちの頑張りがすごくあったのだということを、その後、神戸勤務をして実感しました。

実際に現地に行って実感したのは、地震に遭ってしまってからではできることは少ないのですが、非常持ち出し袋を用意するとか、枕元に着替えを用意しておくとか、そういうことだけでも備えにはなるということです。うちの母親は、空襲に遭ってきた戦中世代でもあり、いつも枕元に着替えを用意していたのですが、それによって次の行動を取りやすかったと聞いています。

いろいろな報道がなされていますが、実際に伝えられていないことが、今でもたくさんあります。地震があって揺れて、たくさん被害がありましたということは、テレビでもいっぱいニュースになりました。そのときになかなか首相官邸が動かなかったということもニュースになりました。どうしても最初の立ち上がりのときに後手に回ったという印象が強く、そのことばかりがその後も強調されてしまい、実際に兵庫県南部地震という地震があって、それから、それによって起きた災害である阪神大震災が何であったのかという全体像が十分に伝わっていないというのが、私の9年間の感想でもあります。

私もマスコミに身を置いていて、いろいろなことがありますが、1つのことがあっても、せいぜい3日とか1週間たてば、ニュースではなくなってきてしまいます。あの時もニュースとして伝えていたのですが、最終的には地下鉄サリン事件などもあり、ニュースの伝わり方もそこで変わってしまいました。被災地神戸では、それ以降も、もっといろいろな大変なことがありましたし、実はそれよりもっと前にも、結果的にニュースにならなかったことで大事なことがあったのではないかと思っています。

災害が起こる前にできること

地震が起きて、家が壊れてしまって、その段階でたくさん亡くなった方がいらして、その方に対しては何もできなかったわけです。しかし、何もできなかったこともあって、そのことはなかなか伝わっていない。誰がそのことを代弁するのかといっても、誰も亡くなった方のことを代弁する人がいなかったわけです。実際、被災した後、いろいろやらなければいけないことがたくさんありましたので、そのことがたくさんニュースになっていましたが、起こる前にやっておけばたくさんの方が亡くならなかったという、一番のポイントがなかなか伝わっていかなかったということです。

神戸市には、医者が病院などで直接死を看取った以外の状況で亡くなった方について、法医学の専門医が視るという監察医の制度があります。神戸市はその制度の下にあって、専門の医者がいたので、その医者たちが震災で亡くなった方々の死因について詳しく調べました。ご遺族にとってはちょっとつらく、早く供養してあげたいという気持ちがあるところでしたが、専門医たちが頑張って手分けをして、3千人以上の方の死因を細かく分析した結果、多くの方が家の中で、家によって亡くなっていたということが科学的な事実として分かりました。これが震災の2カ月後、3カ月後の3月、4月ぐらいにデータとしてまとまって論文にもなって、それがさまざまなその後の基礎的な材料になっています。しかし、その材料を社会として、なかなか生かしてこられませんでした。ようやくここ2、3年になって、そのことが少しずつ伝わってきました。

1995年1月の鷹取商店街と、2002年4月の鷹取商店街

実際、地震が起きる前にやるべきことの一番の基本は、家が壊れないようにすることですし、家が壊れなくても重量物、重たい物が自分の上に降ってこないように家具を固定することや、重たい物が飛ばないようにすることではないかと思います。昔から耐震補強というのは言われていたことですが、ただ単に壊れないようにするというだけではなく、壊れても命がなくならないような壊れ方が大切です。私の実家も半壊で済んで、親は怪我はしなかったわけですが、そのくらいで収まれば、まずはよいわけです。全く壊れないように家を造ることは難しいことですが、多少壊れても命が助かる壊れ方、そういうような補強をすることはできるわけです。

結局そのことを誰も代弁をしてくれなかったもので、今まではなかなか進んできませんでしたが、ようやくそのデータが注目されて、ここにきて市民やボランティアでの取り組みが、耐震補強というところに向いてきました。私は海外の災害救援のお手伝いもしていますが、日干しレンガの家を造るときには、より揺れに強い造り方、鉄筋を入れたりというようなことを地元の方に伝えるようなことも、神戸のボランティアたちが現地でやったりしています。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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