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防災コラムVol.185

意外と知られていない、三宅島噴火災害の支援活動(後編)

公開月:2006年7月

全島避難後、各地に散らばった島民。その島民を10年前の全島避難から避難解除、そして現在に至るまでの長期間、静かに支えているボランティアがある。その事務局長である上原泰男氏の話を、前回に引き続きお届けする。

島民の心をつないだ電話とFAX

ふれあいコールの様子。自らがボランティア参加しかつて近所だった島民の避難宅へ電話をした。

各地に散らばった島民を電話帳というかたちでつないだ後、『三宅島災害・東京ボランティア支援センター』は次の段階へと活動を移した。確認できた世帯にFAX付き電話機を配り、週刊でニュースレター『みやけの風』を送ることをはじめたのだ。このニュースレターは、その後、約5年間、計256号発行されることとなった。

さらに、三宅島島民電話帳を足がかりに、各世帯に電話をかける『ふれあいコール』という活動もスタートした。
「まずは島民の女性を中心に参加を募り、研修会を開いて、実際に電話をかけたんだ。その際、寝られるか、食事できるか、といった生活・体調面の話題をさりげなく入れて話すことを心がけてもらった」(上原氏)
この『ふれあいコール』のやりとりで、島民になんらかの異常を感じた場合は報告してもらい、後日、村役場職員がその島民をたずねたのだという。

先の見えない避難生活に希望を届ける

実は当時、避難しても2週間くらいで帰島できるものだと皆思っていたようだ。だから、2つまでと制限されたバッグには、夏服を中心に詰めて島を離れたという。ところが、夏が過ぎ、秋も過ぎる頃、島民の間で“正月までには帰れないのでは”という不安が蔓延しはじめた。 「慣れない場所での困難な避難生活の終わりが見通せない中、絶望する人が出ることを恐れ、相当深刻に考えた。そこで、全島民が一堂に集まれる場所を提供しようと思い、『三宅島島民ふれあい集会』をはじめることにしたんだ」(上原氏)

最初の『三宅島島民ふれあい集会』が行われたのは2000年12月。会場は島に帰る船が出る場所がいいという想いで、学校や地域、企業の協力を得て、竹芝桟橋(港区海岸)に近い小学校で開催できることになった。
「単に集まって楽しむ集会をやる気はなかった。各方面の責任のある人に現状や見通しを率直に話してもらいたくて、集会には気象庁や東京都の担当者・責任者を呼んだ。三宅島で正月を迎えることができないその理由を、“厳しい判断だとしても、あなたが来て直接、率直に説明するべきだ”と言って来てもらったんだ。当然、島民からは厳しい質問もあった」(上原氏)
この集会も長期の活動となり、避難指示が解除されるまでの4年余の間に年2回、計9回の開催となった。

4年5ヶ月ぶりの避難指示解除

三宅島災害・東京ボランティア支援センターの会議風景

全島避難から4年5ヶ月後の2005年2月1日、避難指示は解除される。そこで、『三宅島災害・東京ボランティア支援センター』は、島民の帰島に合わせて、島内での暮らしの再建支援をするボランティアの派遣を決めた。
「のべ5000人のボランティア派遣(5000万円規模)を公表し、東京都や三宅村と調整を進めた。現場の支援といっても、誰もが大人数で入っていきなり手伝えるという単純なものではないからね。ボランティアには、噴火による有毒ガスの対策などの事前研修を行ったうえ、各自5日間、島内で活動してもらった」(上原氏)
このボランティア支援事業は、208日間におよび、のべ5400人のボランティアが参加するものとなった。

全島避難から約5年。世間から忘れられてしまう心配もあっただろう。
「帰島のとき、注目されるかな?と思っていたけれど、2004年の中越地震や台風23号災害で結果としてそちらに注目がいったかもしれない。でも全くフォーカスされなかったかといえば、それは東京都の島ということもあって、当時東京のマスコミはずいぶん動いて。2000年の全島避難から毎週特集をしていたテレビ局もあったしね。これは東京で起こったことであるという、ひとつの特徴だったと思う。地方だったらこんなに扱われていなかったかもしれない」(上原氏)

復興と、ローカルな問題

帰島支援活動後、三宅島は復興へと進んでいく。そんな中、“高齢者課題”という新しい問題が見えたため、『三宅島災害・東京ボランティア支援センター』は阿古地区にあった日本建築学会の研修所を借り、高齢者の見守りや島民の交流を目的としたコミュニティスペース『みやけじま<風の家>』をはじめた。
「地域で引き受ける環境になっていないのでまだ活動は続けているけれど、今はそういったローカルな問題は地域で引き受けなければならないと思う。これは無責任な意味ではなくて、ある期間が過ぎたら地域力を引き出す意味で、どんなに深刻な問題でも地域で引き受けなければいけないと思ってね。一方で、歯を食いしばらずに交流するつもりで持続していきたいとも思っている。“社会の不幸に対して他者がどう関与していくべきか”を我々は学ぶべき。三宅島のことは、たくさんの人がそれを感じ、学べる機会だった」(上原氏)

地味で慎重、長期的で静かな組織支援

話を聞いて気づいたことが2つある。1つ目はすべての活動が地味なこと、2つ目に常に組織として動いていたことだ。ボランティアというと、個人で自由に参加・活動できるとか、被災地で活躍している人たちという派手な印象があるかもしれない。しかし、この一連の三宅島の支援活動は、島民との信頼関係や行政・企業との協働に配慮するために、長期的で静かな組織支援だった。

話を聞きはじめて2時間余りが過ぎた。おそらく私が聞いたのは、実際の活動のほんの一部でしかない。そのウラには多くの苦労や慎重さ、想いがもっと詰まっていたはずだ。上原氏は最後にこんな話をした。
「僕は“安心する言葉”を胃に穴が開くくらい考えるの。自分の持っているすべてのことを一瞬の言葉として出さなくてはいけない時もある。これは僕にとって決定的なこだわりで、最大のテーマなんだ」
それを聞いた私は「(自分は)修行が足りないなぁ」と正直思った。ふと上原さんから視線をはずすと、事務所のスタッフがパソコンの前に座って黙々とメールの返信をしている。この部屋では今も静かに支援が続いているのだ。“2時間で10年分を訊く”という、なんと失礼で無謀なことをしたのかと、なかば反省した。(おわり)

(文・レスキューナウ 岡坂健)

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