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防災コラムVol.184

意外と知られていない、三宅島噴火災害の支援活動(前編)

公開月:2006年7月

三宅島噴火から10年になる。全島避難という事態、その後の島民の生活を間近で見てきた『東京災害ボランティアネットワーク』の上原泰男氏に話を聞いた。今回と次回、2回にわたってお届けする。

災害の多かった2000年

取材のために都内某所の事務所を訪ねると、その人はひとりで私を待っていた。『東京災害ボランティアネットワーク』。10年前の噴火から始まった一連の三宅島災害を今も支援している団体の事務局長、上原泰男氏だ。
今回の話を伺うにあたって、自分が三宅島の(ボランティア)支援の実態をよくわかっていないことに取材前日になって気がついた。筆者も10年ほど前から災害ボランティアの活動にも関わっているが、よく考えると三宅島の支援の具体的な活動の話を細かく聞いたことがなかった。やや言い訳になるけれど、あの噴火災害は2000年の6月からの話で、その年は3月末からの有珠山噴火にはじまり、9月の東海豪雨、10月の鳥取県西部地震など災害の多い年だった。

あの噴火を振り返る

全島避難前の噴火の様子。提供/みやけじま<風の家>坂上由香

三宅島は、東京の南175キロにある島。飛行機で羽田空港から1時間ほど、フェリーだと7時間弱かかる。海底噴火によってできた島で、島全体がいわば活火山になっている。歴史上の記録を見ても20~30年に1回ほど噴火していて、最近の噴火は2000年の噴火で全島避難、その前は1983年で、溶岩流が広範囲に海まで流れ込んだ。旧阿古小・中学校校舎を溶岩が飲み込んだ様子は今もそのまま残されており、当時の爪あとを見ることができる。
今回話題にした2000年の噴火は、6月26日の夕方に群発地震が始まり、翌朝9時には海底噴火が発生し、7月、8月と噴火活動が活発化。8月の終わりに低温火砕流が発生したことなどがきっかけで、9月2日から全島民の本土への避難が始まった。(この避難指示が解除されるのは、その4年5ヶ月後の2005年2月1日となる。)
この概略だけは知っていた。避難解除されて1年半後に一度赴いたこともあるので、その後の復旧や生活の現状もごく一部だが見てきた。 しかしどうもわからないのは、2000年の噴火から今日までの10年余りを支えてきたボランティアの具体的な活動だった。
一般に災害ボランティアといえば、避難所の手伝いだったり、水害時にスコップで泥をかいたり、水没した家具を運び出したりする清掃ボランティアのイメージ。三宅島にも清掃のボランティアがなかったわけではないが、私が知りたかったのは全島避難して帰島するまでの約5年間に島民の方に何があって、ボランティアはどんな支援をしてきたのか、ということだった。聞いてみると話は意外なものだった。

全島民避難前の第1陣

7月に入って雄山は本格的な噴火を繰り返し、そのたびに大量の火山灰を降らせた。雄山の噴火は島民の恐怖心を高め、安全な地域にある親族や知人宅に避難する高齢者も出始めていた。
この頃、三宅島社会福祉協議会から東京都社会福祉協議会を通じて『東京災害ボランティアネットワーク』に支援を求める連絡が入る。現地からの支援依頼を慎重に協議した後、調査団を派遣。三宅島への支援を決めた。上原氏とともに数名の先遣隊が入島したのは7月19日だった。
「この問題を引き受けようと思ったスタッフはたくさんいたけど、具体的に継続した活動や準備をすることは相当難しいことも皆よくわかっていたから、本当に慎重に考えたものだよ。結局、火山灰を除去するためのボランティアを派遣しようという話でまとまった。だけどね、これは簡単な話ではないんだ。三宅島の村長と連絡を取ったり、役場の関係施設を借りる話を進めたり…。そもそも被災地でボランティアが信頼を得ていくのは、大変なことなのだから」(上原氏)
『東京災害ボランティアネットワーク』は、140人を派遣して2日間活動した。その派遣2日目には島の人と交流会を持つことができ、火山灰を除去するというボランティア活動に対し、とても感謝されたそうだ。“次も来なくては…”と気持ちを新たにしたスタッフたちだったが、噴火活動はますます活発になっていき、8月には低温火砕流が発生。それをきっかけに、島内では全島避難の準備が始まることになる。

各地に散らばった島民

当時作成された「三宅島島民電話帳」。

2000年9月2日にはじまった全島民の避難は、2日後の9月4日には完了。三宅島から避難してきた住民や職員が東京に移動してきたのを機に、“三宅島の支援にあらゆる組織が協力できるようにしておかないといけない”との考えの下、『東京災害ボランティアネットワーク』が中心となって『三宅島災害・東京ボランティア支援センター』を立ち上げた。
島を離れた島民は、オリンピック記念青少年総合センター(渋谷区代々木)へ一時避難。すぐに都営住宅等へのあっせんがはじまり、9月8日に完了する。
「短期間で島民が散らばってしまったから、この時点で約3800人の所在がわからない状態になってしまった。東京、一部は神奈川、親戚の家を頼った島民は都外の地方にも行ってしまったからね。島民同士が把握できる状況では、到底なかった。だから、それを『三宅島災害・東京ボランティア支援センター』の最初の活動とすることにしたんだ」(上原氏)
“住民同士がお互いの所在を把握できるように”と電話帳を作ることにしたのだ。しかし、個人情報保護が壁となって簡単に作成することができず、方法を模索することとなる。

誰もいない三宅島全戸に郵便を送る

島民がすでに散らばってしまっていることが、避難者の中でも徐々に問題化してきていた。
「どうにかしなくては!と考えていたとき、郵便物が転送されることを利用して連絡をとることを思いつき、誰もいないはずの三宅島の全戸の住所宛に郵便物を送ることにした。封筒に“許可いただける方は住所、電話を書いて返送ください”と手紙を入れてね。宛先不明で帰ってきたものももちろんあったけど、徐々に返送されてくる数が増えてきたよ」(上原氏) この返送を受け、大変だったのがそれを打ち込むボランティアだったとか。会社帰りのサラリーマンたちが夜どおしで、一生懸命入力したのだという。
「数字ばかりだったから、チェックも大変だったけどね。こうやって(2000年)11月末に電話帳の第1版の発行にこぎつけた。当時、マスコミにも記事で大きく取り上げてもらい、それまで連絡のつかなかった県外避難者から連絡がくるというきっかけにもなったよ。“第2版にはぜひ私も入れてください”ってね」(上原氏)
企業などの協力も得られるようになり、第2版からは入力ボランティアの数や資金面も状況が一変。この電話帳は、最終的に第3版まで発刊されることになる。

さて、この活動。“画”として実に地味な活動だ。仮に活動風景の写真を撮っていたとしよう。そこに写っているのはおそらく会議風景や、封筒を仕立てている様子。オフィスの一角でパソコンに向かっているワイシャツネクタイ姿の男性…。おそらく災害ボランティアをしているという風景には見えなかったことだろう。

(文・レスキューナウ 岡坂健)

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