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防災コラムVol.51

三宅島が復興の道を歩むために

公開月:2006年2月

NPOの現地視察に参加し、三宅島の今を見つめてきた。

車中でも火山ガスの臭い

東京都内にも被災地がある。都心からフェリーで約6時間の三宅島(東京都三宅村)だ。現地を視察するNPO法人「東京災害ボランティアネットワーク」の一行に同行した際の見聞を紹介しよう。

2007年7月5日夜、東京・竹芝桟橋のフェリー乗り場を発ち、フェリーは翌朝5時頃、三池港に着岸した。すぐさま、今も火山ガスの噴出が続く現実と直面した。船の中でも硫黄の臭いがほのかに漂っていたが、タラップを降りるとより強く鼻をついた。三池港は雄山(おやま)山頂からの火山ガスが流れやすい「坪田高濃度地区」にある。移動の車内でも臭いを強く感じ、宿泊施設へ着いた直後、火山ガスの警戒レベルは、最高の「4」(屋外ではガスマスク装着、注意報や警報の出ていないエリアへ移動)となった。

雄山の中腹

雄山中腹で試験的に栽培されている作物

仮眠の後、煙を噴き上げる雄山を島の真ん中に見ながら、島内をバスで視察した。都道を外れ中腹へ向かう道では木が白く立ち枯れ、至るところに泥流の跡、雄山の中腹では溶岩でできた砂利の世界が広がっていた。

一方で、雄山の中腹に通じる都道は整備され、ふもとの地域の復興の様子をうかがい知ることができた。火山ガスにも強い商品作物を見つけるため、ふもとの農家が斜面に何束もの苗を植えていた。ある農家では三宅島でよく見かけるアシタバに加え、メロンやスイカなども育てており、順調に生長しているという。今後はいかに三宅島産の付加価値をつけるかが課題となっている。

「御焼島」に由来

阿古港の様子

三宅島の歴史は「御焼島」に由来することからも分かる通り、火山噴火の歴史でもある。中腹から阿古地区へ降りてしばらくすると、窪地に到着した。周囲は草が生い茂り、窪地の奥深くまでのぞくことはできなかった。案内板には約20年前まで池があったと書かれていた。この池は1763年の火山活動によって誕生し、1983年10月の火山活動で一瞬にして干上がってしまったという。当時、沖で漁をしていた村民の話では、池のあたりから白い輪の形をした煙が見えたそうだ。まさにこの時の水蒸気爆発により、池の水が干上がったのである。池の盛衰に火山活動が深くかかわり、付近の海岸が幾度の噴火によって堆積した火山灰で覆われているのを見ると、「御焼島」の歴史を実感させられた。

旧阿古地区からの教訓

バスが阿古地区に差しかかった時、住宅が密集して建てられておらず、都道沿いに建てられていることに気づいた。その契機となったのが1983年の噴火で、当時、この地区は多くの住宅が密集して建てられていため、ほとんどの世帯が溶岩流に飲み込まれ家を失った。この教訓から少しでも住宅被害を減らそうと、都道沿いに住宅が建てられるようになったのである。

空港再開が発表

運航再開に向け準備万端の三宅島空港

ダイビングや釣りを楽しむ人、海岸線を散歩したり、温泉でのんびりしたりする観光客、阿古港でみやげ物の海産物を求める客の姿──。視察では観光やレジャーを目的に三宅島を訪れている人に多く出くわした。三宅村の平野祐康村長によると、交通アクセスの不便さのため、観光客は噴火前の半分程度にまで落ち込んでしまったという。噴火前は羽田空港からの飛行機と東海汽船のフェリーが利用できたが、火山ガスの影響で現在はフェリーのみとなっている。

しかし、三宅島空港の設備は脱硫装置が設置され、出発到着ロビーも新しく整備され、いつでも再開できる状態である。施設を管理している東京都の職員も一刻も早い空港再開を願っていた。その願いは島民も同じであり、空港再開に向け署名活動も行われている。そうした島民の活動の末、8月24日、東京都は三宅島空港の再開を発表。2008年春をメドに全日空便が再開時期を調整するとのことである。再開すればさらに観光客が三宅島を訪れ、復興への弾みがつく。再開を前に、11月16日から18日には、バイクレースが開催される。三宅島空港の滑走路を使ったレースや、一般からもライダーを募集してツーリングなども行うイベントだ。着実に復興しつつある三宅島へ、是非足を運んでみてはいかがだろうか。

(文・レスキューナウ危機管理情報センター専門員 三澤裕一)

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