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ゆかり文化幼稚園 インタビュー

ゆかり文化幼稚園 藤田厚生 園長先生

成城学園前駅から徒歩8分の閑静な住宅街の中にあります、ゆかり文化幼稚園にお伺いしました。
幼稚園の創設者が「春よ来い」で有名な作曲家、弘田龍太郎先生であり、また丹下健三氏が1年かけて設計されたとてもユニークな園舎が特徴です。幼稚園の教育内容も創設者の意思を今もなお引き継いでおられます。

日本画家の両親が「ゆかり文化幼稚園」を設立

藤田厚生 園長先生ゆかり文化幼稚園は、1947年(昭和22年)に私の両親の、藤田復生・藤田妙子によって設立されました。現在は2人とも亡くなっており、園長は私で4代目になります。

私の両親は日本画家でした。展覧会を組織したり作品を発表したりしておりましたが、戦後何かを始めようと思ったときに、母の父に相談に行ったらしいのです。母の父は作曲家で、童謡の「叱られて」とか、「浜千鳥」を作曲した弘田龍太郎です。弘田に幼児教育を始めなさいと言われたそうです。弘田龍太郎自身も幼児教育に興味があったようです。弘田龍太郎は作曲家ですが、童謡でよく知られていることからもわかるように、若い頃に、赤い鳥運動や、北原白秋の児童文学の運動と関わりがあったようです。そういった経緯があり、弘田龍太郎に初代園長になってもらい、2代目として父が長いこと園長をやりました。この場所は父方の祖父が個人の住宅を持っており、日本画家だった父が、わりと広いアトリエをここに持っていましたので、そこを含めて個人の住宅を幼稚園にして始めました。それが最初の1947年頃の状態です。

同時に「ゆかり児童文化園」というものをつくり、小学生のお子さんに母がピアノを教えたり、モダンダンスを教えたりしました。弘田は東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の作曲科助教授のときに、ベルリンに2年間留学しており、その時母の氏姉妹3人も一緒に行きました。そこで母は、いわゆるクラシックバレエではなくモダンダンスの先生についてバレエを勉強したので、帰国後子ども達にモダンバレエを教えました。また、父が画家でしたから絵の教室をつくり、幼稚園と児童文化園を同時に始めたのです。

芸術家達の協力、丹下氏による園舎設計

ゆかり文化幼稚園の外観そのうちにだんだん子どもの数が増えて、増築、改築する必要が出てきました。ちょうどその頃、丹下健三さんが成城にお住まいになっていました。最初は父が、丹下先生に建築家の方の紹介をお願いしたらしいのですが、自分がやるからと言ってくださったそうです。1966年に、丹下健三設計研究所の方が、1年間ここの保育の研究をし、どういう教育の理念があるのかということを聞いた上で、父と相談しながらこの幼稚園の設計をしてくださいました。

幼稚園を設立するときに、祖父の人脈で大勢の文化人や芸術家の人達の助けでこの幼稚園を創立することができました。例えば作曲家の小松耕輔さんや画家の野田九浦さんや柳宗悦さんなどです。野田九浦さんは芸術院会員の日本画家で、この方が私の父と母の日本画の先生です。柳宗悦さんは、奥様が柳兼子さんという声楽家で、私の祖父と祖母の芸大時代の同級生です。日本画家であった両親が幼稚園を作る、つまり日本で初めて芸術家が幼稚園を始めるということで珍しいということもあったのでしょうが、大勢の人が手伝ってくださった。そういう経緯から、丹下先生もこの幼稚園のやり方を理解して、芸術作品になるようなこの建物を造ってくださったのです。

表現する経験、達成感によって成長する子ども達

今まで続いている、ゆかりの保育の歴史の中で、表現教育ということが、私たちの教育の中心になるように思います。英語やお行儀などを教えることを主にするのではなく、表現教育ということで、芸術の考え方を利用した表現、歌をうたうとか、絵を描くとか、あるいは演劇といったことをこの園では教育の中心にしています。

スポーツショウ

お父さん、お母さんと一緒に競技10月の最初の土曜日にスポーツショウという行事があります。このときも、いわゆる運動会ではなくスポーツショウなので、例えば野外でやるオペレッタを行ったり、絵を描くような造形競技をしたりします。自由表現というのですが、舞踊のような、音楽に合わせてストーリーを持った動きを子ども達が演じたりもします。もちろんリレーや綱引きもあります。

造形展

11月には造形展という行事があります。これは1年間、子ども達が日常の中で、造形活動をして作ったものや、粘土で作ったものを展示します。卒業の段階では粘土で作った物を素焼きにし、色をつけてレリーフを作り、卒業記念に持たせます。画家が幼稚園を始めたということもあって、造形関係の保育の内容が非常に多岐多様なことが特徴になっています。木炭画や水彩画、はじき絵やモビール作りなどをして、1年間溜まった物を展示します。

文化祭

舞台の上でのびのびと演技する子どもたち3学期になり2月か3月に、文化祭をします。このときには歌をうたったり、スポーツショウでやるような自由表現を舞台の上でします。オペレッタや簡易楽器の合奏もします。もちろんこの場合にはご父兄がご覧になるのですが、ご父兄に見せるというよりは自分達が楽しむという意味があります。あるレベルまで子どもが楽しんでやれるように、あるいは混乱しないように指導しながら、表現として磨き上げたものにしています。子ども達は集団で表現するという活動の中で、それがきちんとした形でできるという達成感を感じるでしょう。努力して表現が完成して、ご両親にきちんと見ていただくことができたときに、子ども達がそのことによって成長するような、そういう経験をさせたいと思います。もちろん表現教育の基になる身体の成長や健康はもっとも大事ですので、子ども達は普段から広い園庭で多く遊んでいます。また、なるべく徒歩通園にしていただいており、園バスを持っておりません。幼稚園というのは本来、お子さんが小さいですから、そんなに遠くからは来られません。遠くからお出でになる方でも、成城駅のところからは歩いて来られます。なるべくお母さんと一緒に歩くことで体が作られます。

子どもの自発性を尊重

子どもの生活というのは幼稚園が全てではなくて、ご家庭があり社会があるわけですが、幼稚園の中での毎日の生活の3年間が、子どもの能力、感性を伸ばします。特に私自身が一番気にかけていることは、「子どもの自発性」です。今、小学校に入る塾にお通いになるお子さんは多いです。子どもにとっては、ある方向をつけられた、例えば小学校の入学試験でこういう風にご挨拶するんですよというようなことを繰り返しやっていると、大人の言うことを聞いてからでないと、行動しないという傾向が出てくる可能性があります。私はそれはあまり望ましいことではないと考えています。

動物になりきって踊る子どもたち今、スポーツショウの準備をしていますが、決して「練習」という言葉は使わないんですね。子ども達が、自分が楽しいからやるというようにします。もちろん約束事がいろいろありますから、卒業年度の子ども達は、ずいぶん何度も練習のような形になるのですが、それをきちんとできるようになることが楽しいという経験をさせていきます。もとはごっこ遊びから始まったのですが、動物になったり花になったり役割を演じます。それになりきって、舞踊のような音楽に振りがつき、踊ることが楽しいというように子ども達はだんだん変わってきます。最初は訳がわからないし、退屈かもしれないけれど、だんだん楽しくなってきて、見事に美しい表現ができるようになると、表現することを楽しめるようになっていきます。そういう経験をすることができるのです。3大行事は「スポーツショウ」と「造形展」と「文化祭」ですが、すべて表現ということにかかわっています。

生活の延長線上にあるオペレッタ

幼稚園は何か教える場所ではなくて、3才から6才までの子ども達の生活の場だと考えています。小学校に行くと知識や、技術を教わったりしますが、幼稚園の場合は、感性を伸ばすような生活をさせるという意味で歌や造形や運動を捉えています。昔はお遊戯と言っていたのですが、今はもう少し演劇的な表現を身体で表現することを取り入れています。個人的にバレエを習っている先生も何人かいらっしゃいます。

かえる役の子どもたち子どもですから、大人ではなく、子どもの感性が受け止めるようなものを集めて、なるべく本物を与えたいと思っています。母が50曲くらい子どものためのオペレッタを書いており、最初の頃はずいぶん駄作もあったのですが、使えるものが10曲、20曲あります。この幼稚園では、年長、年少(一般的には年中組のこと)、それとひよこ組(一般的には年少組のこと)と呼んでいますが、毎年オッペレッタを卒業年度の年長の時と、簡単なオペレッタですが、年少の時にもいたします。文化祭では、3才児のひよこ組も、自由表現といって、子ども達が衣装をつけ音楽に合わせて歌の中で遊ぶというようなものをします。うさぎが跳んでいるところにかえるが来ましたというような簡単なストーリーです。文化祭の舞台衣装で使ったような、背中につけるちょうちょの羽とかうさぎのかぶり物とかは、普段遊ぶときにも遊び道具として置いてありまして、庭で遊ぶときにうさぎになったり、ちょうちょの羽をつけて走り回ったりしています。そういう遊びや生活の延長線上に、舞台上での表現もあるのです。その次に舞踊劇という段階になります。舞踊劇の方はもう少し物語性があるもので年少の時にやります。年少の子ども達は2月の文化祭のとき簡単なオペレッタをします。年長組は秋に野外で行うスポーツショウのときにオペレッタをやり、2月の文化祭には舞台でまた別のオペレッタをやります。子ども達には思い出になるでしょう。母が作ったオペレッタは、小学校で取り上げるところもあるようで、音楽之友社から何冊か出版されています。いくつかあるオペレッタの演出をいろいろ工夫しながら、その年の子ども達の傾向に合わせて、私や妹が一部改作をしています。

スポーツショウの様子いずれにしても、表現する技術を高めることを目的にやるわけではなく、子どもが表現を通して成長することが大事だと思っています。子どもの保育の一部として、演劇の専門家とか音楽の専門家とか、造形をある程度勉強した者が専門的な能力を生かしつつ、生活の節目の行事のときに準備をするのです。父や母の時代にはそれぞれ父と母が自分達の考えで新しいことを次々に始めていき、オペレッタなども、母が音楽劇などから子どものためのオペレッタを思いついて形にしたものです。私たちの世代になって、今まで母がやっていたような演出から変えて、自分達なりの演出をしたり、曲も私や妹が少し手を入れたりして、新しい試みをしています。

先生達の研修会

表現教育について園のやり方を紹介する先生達向けの研修も行っております。春の期間には、1学期の間に6回あります。造形と音楽の研修で、幼稚園の先生が30人くらい参加されます。オペレッタや歌を指導したり、造形の保育のやり方を指導したりしています。夏休みの7月末には、毎年場所を変えてスクーリングをします。1泊2日という日程で、今年は小田原、昨年は木更津で行いました。今までの50何年のお付き合いのある幼稚園の方や、うちの表現教育の方法に賛同してくださる幼稚園の方、幼稚園の園長先生から勉強していらっしゃいと言われた若い先生達、だいたい70〜100名、私共の幼稚園の先生を含めると100名ちょっとでスクーリングをします。すぐ下の妹は東洋英和の保育科で勉強して、父が担当していた造形を引き継いでおり、妹がスクーリングや研修を担当しています。

ゆかり児童文化園

この園には、幼児教育だけでなくゆかり文化センターという考えから始まった、「ゆかり児童文化園」というものがあります。これは付帯事業で幼稚園の財政的な助けにもなるということで、幼稚園の午後の空いている時間を小学生、あるいは受験されるような年齢までを対象にした、ソルフェージュの教室とか、ピアノ教室などを開いています。美術教室だとか、バレエ、それから子ども達の体操教室もやっています。もちろんピアノ教室は内部の職員が指導しております。妹は東京芸術大学の作曲科を出て、母が教えていたピアノの指導を引き継ぎ、ずっと長いことピアノ教室をしています。私の息子は多摩美でデザインを専攻してイタリアに留学したのですが、戻ってきて子ども達の造形・美術教室を日曜日と土曜日に開いています。希望される方には幼稚園のお子さんも木曜日の午後、2時間くらい美術や工作の教室をしています。

父母の芸術作品である幼稚園を継承

私自身のことですが、中学校くらいまでは医者になりたいと思っていましたが、途中から音楽の方に行こうと思い、作曲の先生につき勉強して、東京芸術大学を卒業してからフランスに3年ほど留学しました。私の両親はこの幼稚園を自分の芸術作品のような考えでやっていました。芸術作品であれば芸術家が亡くなれば終わるわけですが、教育施設というのは、いきなりやめるということはできないわけです。この地域に根付いて50何年独自のやり方でずっと続いていますし、しかも丹下先生の建物であったりするとやめるということはなかなかできません。私は日本に帰ってきてから、30才から60才までだいたい30年間、東京芸術大学で理論を教えていたのですが、非常勤で教えていたのを辞め、幼稚園を引き受けることにしました。母が亡くなったときに理事長を兼ねて園長に就任して、私は4代目です。

幼稚園というのは必ずしも一族でやらなければいけないとは思わないのですが、今、幼稚園そのものの実態が非常にまちまちです。宗教法人の幼稚園もあるし、大学付属もあるし、どろんこ遊びしかしないというところもあります。義務教育ではないこともあって、独自の教育理念でそれぞれの幼稚園がやっておりますので、それを理解している人が引き継がないと、うまくいかないということがあります。もう1つ、幼稚園というのは、企業のように利潤を追求するようなものではないので、引き受け手がいないことが多く、結局のところ身内が引き継ぐことになります。

今や卒業生のお子さんが来たりしていて、卒業生達が「ゆかり会」という会を作っています。10月の半ば過ぎにゆかり祭というバザーをやり、父母の会が中心となって開催するのですが、その時にも卒業生達がずいぶん助けてくださいます。楽しかった思い出をずっと持っていてくださる方がお子様を幼稚園に入れたいという話があったりするので、なくすわけにはいかないですね。丹下先生の建物ももう30何年経って徐々に傷んできていますが、何とか維持しなければいけないと思っています。

芸術家としての柔軟な生き方

私自身は、両親が幼稚園をやっているときに、芸術家が自分の作品のような形で幼稚園をやっているという風に見ておりましたので、まさか私が幼児教育に関わるということは考えていませんでした。しかし、留学中にフランスで一流の音楽家とも多く交わり、芸術家達からの影響で、考えが変わりました。私は作曲家で1970年代は自作の発表をしたりしていましたが、作曲ということに限って音楽活動をするというのではなく、教育も音楽活動だということに気づいたのです。芸術家としての生き方というか活動というのは、これしかやらないというのではないのです。実際に演奏活動も教育も、あるいは文章を書いたり、私の場合には通訳とか翻訳とか芸大で授業をしたり、作品を発表したり、そういうことも含めて、芸術家として生きる活動というのはいろいろなことに関連するということなのです。そういうことをごく自然にやっている芸術家が大勢いますので、見ていて、感化されたと思います。

私の父は作品もずいぶんあったのですが、自分で作品を処分してしまったことがあります。父は全くそういうことに後悔はなくて、幼児教育を始めたことに満足して死んでいきましたし、母も幼児教育をやれたことが本当に幸せだったというふうに言っていました。私自身、父や母のように50何年も幼児教育をやるというような時間は残されていないのですが、今までやってきたことに間違いはないと思っています。感性を生かして幸せな人生を歩んでいる子ども達が大勢いるからです。楽しかった思い出を持ったまま大人になり、いつもそこに戻って来られるようなものを持っているのです。自分の分野の中で、幼稚園での経験や生活の思い出、その中で培われた感性とか、そういうものが生かせるような生き方をしている人が多くいると私は確信できます。ですから、この幼稚園はなくしてはいけないものだと思っていますし、それはまた、1人でできることではありません。

2005年9月13日(火)ゆかり文化幼稚園にて

ゆかり文化幼稚園 HP
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