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駒大経済銀八教授のWarm Heart Lecture

銀八教授(福原好喜)のプロフィール

銀八教授の本

新渡戸稲造晩年の苦悩−憂国と愛国の間で−(23)

忍ぶ心は神は知るらん

新渡戸が詠んだ数首の歌には、彼の身にも生命にかかわる危険が及んでおり、彼自身この時点で死を覚悟していたことが分かる。手紙の中で彼が「近々米国に行くべき相談を受け候 政府より命令ある様に相談有之候へ共小生は政府よりの派遣を望み申さず 私人の資格にて事にあたり度存候」と記しているように、新渡戸のアメリカ行きは当初、政府の命令で行くよう相談があったが、新渡戸はこれを嫌って、私人の資格で出掛けることを決意したことが伺える。彼は言う。

「奉刻の一念以外の他意はなく
国を思ひ世を憂ふればこそ何事も
忍ぶ心は神は知るらん」

しかし彼が「奉国の一念」で仕え、弁護しようとする母国は、満州事変、上海事変を通して、関東軍主導により軍国主義への途を辿り始めた軍部独裁国家であった。成功の可能性は極めて低い。しかも本当は彼が嫌う軍国主義の弁護という仕事に彼の気持ちは暗かった。新渡戸は「松山事件」の渦中で、「排日移民法が撤回されるまではアメリカの土を踏まず」と言って、1924年の排日移民法以来断って来たアメリカ行きを自ら決断する。しかしそれは強い軍部と軍国主義に迎合する世論の圧力に背押されての苦渋の選択であった。これ以降、新渡戸の中では、自由主義者新渡戸は黙して、「奉国の一念」を持した愛国者新渡戸が語り始めることになる。この事件以降、彼の発言は、軍国主義日本のバイアスのかかった、いわば「奴隷の言葉」で語られることになる。この時、新渡戸の魂は大きな矛盾によって「引き裂かれて」いた。

Photo by 飯田純一


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