新渡戸稲造晩年の苦悩−憂国と愛国の間で−(5)
満州事変
1931年9月18日、関東軍高級参謀大佐板垣征四郎、作戦主任参謀石原完爾らは、奉天独立守備隊中尉河本末広に命じ、張学良軍の拠点、北大営南方の柳条溝で満鉄線を爆破させた。「柳条溝事件」すなわち満州事変の始まりである。柳条溝事件は板垣と石原の二人の謀略によるものであるが、関東軍翼下の独立守備隊と第2師団歩兵第29連隊は、現地中国軍の満鉄への攻撃とみなして、直ちに軍事行動に移った。関東軍はその日のうちに長春、奉天などを占領した。この時も新渡戸の情報網は正確であった。彼は事件の翌日9月19日の編集余録に次のように書いている。
326 悪い舌
31・9・19
個人であれ国家であれ、宣伝すなわち口先の言葉によって、正しい事を誤りと証明し、誤りを正しいと証明することができると思うなら、それは大まちがいである。
宣伝はしばしば、黒をしばらく白と見えさせる力をもっていることが多い。しかし、現実と真実は断固たる真理であって、これは、雄弁によってどれほど損われあいまいにされようと、どんな言葉も永遠にこれを変えることはできない。
子供じみたごまかしにふけって、市民も政府も、相手を悪行悪意ありと非難攻撃している。どちらの側も、ウサンくさい証人を呼び出し、どちらも熱烈な口調をつかっている。こういう場合、偽りを語る一枚の舌は、何百万もの人々の心に毒を注ぎ、彼らを破滅の渦巻に投げこむこととなる。
宣伝が愛国心の是認をうけると、虚偽は白昼堂々とまかり通り、大嘘つきであればあるほど、尊敬されることとなる。
忘れぬようにしよう──不十分な根拠をもとに、また偽りの口実をもうけて始められた戦争は少なくないことを。こんな戦争で勝利をえても、その勝利は、征服する国家の歴史のページに永久に墨をぬるのだ。
偽りと殺戮によって大成長をとげ、歴史の法廷で有罪宣告をうけた国があるではないか、あたかも、征服され卑しめられつつ、世界の評価を高めている国家があるのと同様に。

Photo by 飯田純一


