第33回 百姓であること、教員であること
私は農民と大学教員という2つの職業をもっている。「農業をしながら大学へ通っています」と言うと「うらやましいですね」と言われることがあるが、私は趣味で百姓を始めた訳ではない。両親共、百姓であった。大学4年の時、父親が亡くなった。その時以来、生活のために農業をすることになった。5時起きして、田うないをしてから大学院に通った。農作業が間に合わなくて、通学の7時の列車に乗るために、一斗バケツの肥料を抱いて、代かきの田んぼをかけたことがあった。秋に稲穂が不揃いに出た。過労で不整脈になった。貧血で倒れたこともしばしばあった。
私は「逃げる」ことが嫌いである。何か困難なことに出会った時、何時も逃げることなく、真正面から対処してきた。自分が百姓をするということはどういうことなのか。大学教員であるということはどういうことなのか。それに答えを出すことが自分の人生の課題であった。
農業を始めて35年、教員となって27年。「農業をしている」というと、人はたいてい大学教員が趣味で農業をしているのだろうと誤解する。実は私の場合、教員が農民になったのではなく、農民がたまたま大学で職を得たに過ぎない。我が家を訪れた学生達は、私の地下タビ、腰手拭い姿に驚くのであるが、それが私の日常の姿である。
作物を育てない農民は農民ではないし、人を育てない教員は教員とは言えないと思う。しからば作物を育てるということはどういうことなのか?本に書いてある通りに種をまき、肥料やれば稲は育つのか。ある篤農家が私にしみじみ言ったことがある。「ほとんどの農学書は能書きに過ぎません」と。それでは「人を育てる」とはどういうことなのか。専門書を読ませれば人は育つのか?文部省の指導要領に則って授業をすれば、それで人は育つのか?一体知識を与えるだけで人は育つのか?私の答えは「否」である。
私にとって「百姓である」ということと、「教員である」ということとの間にはあまり大きな違いはない。共に、地球上に育まれた生命を大事に育てることを仕事としているということである。作物がうまく育たないのは、自然条件を別にすれば、百姓の育て方が悪いからである。不登校や校内暴力や学級崩壊が起こるのは、やはり育てる側に問題があるからであろう。少なくとも育てる側はそう考えるべきではないか?凶悪事件の犯人である17歳の少年も、生まれた時は、純真無垢の赤ちゃんとして生を受けたのではなかったのか?家庭、学校、社会、周囲の大人達がこぞって、彼をそのような人間に育て上げてしまったのではないのか?
作物は口で育たないように、若者も授業や説教では育たない。知識を与えることで人が育つのであれば、事は簡単で、すべての教員をクビにしてコンピューターやティーチング・マシーンに任せれば良い。しかしそれで、人が人として生きる上に必要な「心」を育てることが出来るだかろうか。愛情や友情や誠実さや勇気や慈しみや思いやりの心を育てることが出来るだろうか?
Photo by 飯田純一
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