第23回 牛の涙
何十年来の酪農家のFさんが胃潰瘍の手術をした。夫婦2人ともいないので、牛が終日モーモー啼いた。牧草を刈って耕耘機で届けた。生き物を飼っている人は一日たりとも留守は出来ないのである。旦那が退院してから奥さんが私にポツリと言った。
「リームのトウちゃん。大変だから止めることにしたヨ」
病気上がりの旦那と自分とでは牛は飼えないから、長年やってきた酪農を止める決心をしたというのである。
トラックで馬喰ろうが牛を連れに来た時、手伝いに行った。坂道にトラックを止め、ブリッジを渡して牛を幌の中へ入れようとした。四つ足を突っぱって入ろうとしないので、奥さんと自分が鼻環を引っ張り、馬喰ろうが尻を押した。牛は頑として動かなかった。
「ホラサ、ワラサ、アニやってんだヨウ」
奥さんと自分は前足を突っぱる牛の鼻環を強く引いた。その時、黒く澄んだ牛の瞳からラッキョウのような大粒の涙がこぼれた。奥さんはそれを見た途端、
「ワタシ、もうダメ」
と顔をおさえて台所に駆け込んでしまった。
牛は腹が減っても「モー」、喉が乾いても「モー」としか言えないが、人の言葉をしゃべれないだけで、自分の身の回りに起こることはすべて承知しているのである。
町の酪農家が一軒減るという、統計上は農村の過疎化の一コマにすぎないことが、現実には、家族の病気や別離や廃業という悲喜こもごもの出来事として生起しているのである。

Photo by 飯田純一
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