第6回 遠い春
O君が青い、緊張した面持ちで初めて私の前に座ったのは、ちょうど一年前のことであった。
「大学は六十点で合格だからネ。頑張らなくていいんだヨ。一休さんて知ってるだろ。困った時は、『慌てない、慌てない、一休み、一休み』って三篇言うんだヨ」
O君は真面目で几帳面な性格の持ち主であった。優れたその性格が、何とか早く良くなりたいという焦りと相俟(あいま)って、かえって彼の生活を切羽詰まった、沈うつなものにしていた。何とかして彼の心にゆとりを持たせなければ、と思いながらも、彼の心は何カ月も晴れなかった。
ただ黙って、目を伏せて私の前に座っているO君の心を慰めようもなくて、私は重い口を開いた。
「Oくん、つらいか」
「先生、つらいっスよ」
「そうだよなあ。つらいよなあ」
目の前に、かつて大空を飛んだ若鳥が、翼を折って失意の底に沈んでいる。こんな時、他人に何が出来るというのだろう。しばらく沈黙の時が流れた。
「君、『異国の丘』って歌、知ってる?」
「知りません。どんな歌ですか?」
「ウン、シベリアに抑留された兵士の歌だけどネ。今日も暮れ行く異国の丘に……」
諳(そら)んじていた筈の歌詞が出てこない。
「下手だけど歌ってみるか」
今日も暮れ行く異国の丘に
友よ、つらかろ、せつなかろ
我慢だ待ってろ、嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る、春が来る
目を伏せたまま、じっと聞いていた彼のまつ毛に涙が光った。
O君が出口の見えないトンネルに入ってしまって、既に二年近くの歳月が経過していた。アドバイザーのアドバイスに従って、かろうじて授業に出てはいたが、荒れた冬の時化(しけ)の海は、何時果てるとも知れなかった。二人で話すこともなく、冬枯れの駒沢公園を何度歩いたことだろう。公園近くの花屋に、一足早い春の花が並ぶようになっても、凍てついた大地に遠い春はなかなかやって来なかった。
自分の考えで、両親とも面談の機会を持った。予備校帰りの妹さんも来ているということで、五人一緒に研究室へ行ってお茶を飲んだ。その後何日かして、妹のIちゃんから長い手紙が届いた。不安な入試を直前に控えて、なお兄のことを想う、けなげで一途な妹の手紙であった。
「兄の話に耳を傾けて下さり、私も両親もとても安心したような、そんな心のゆとりを持つことが出来ました。最近は兄が鼻歌を歌っているのを耳にしたんですよ。学生相談室の方々の親切のおかげで、家に明るさが戻ってきたような気がします。うれしいです。」
長い北国の冬に、今漸く、待ちに待った遠い春が訪れようとしている。

Photo by 飯田純一
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- 第35回 義を見てせざるは勇なきなり
- 第34回 友への手紙
- 第33回 百姓であること、教員であること
- 第32回 大盤振る舞い
- 第31回 援農隊に参加して
- 第30回 明子ちゃんへ
- 第29回 明子ちゃんからの手紙
- 第28回 コスモスの土産
- 第27回 安佳里ちゃんへの手紙
- 第26回 安佳里ちゃんからの手紙
- 第25回 「田舎の夏休み」の花奈ちゃんへ
- 第24回 心の教育
−新渡戸稲造、遠友夜学校 - 第23回 牛の涙
- 第22回 新渡戸稲造と唐人お吉
- 第21回 真面目の不徳
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- 第19回 一緒に育とう乙女の恋心
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- 第17回 ホタルに寄す
- 第16回 最長不倒記録
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−農民教授の農産物 - 第14回 心の中では悩み苦しんで
- 第13回 「ふぅ〜」が多いのです
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- 第11回 「総理に忠告す」を読み終えて
−大学をやめようかと - 第10回 「総理に忠告す」を読み終えて
−心の中に入ってきた人 - 第9回 「総理に忠告す」を読み終えて
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- 第7回 『「銀八先生」心の手紙』を読んで
−先生、自分が好きになりました - 第6回 遠い春
- 第5回 ウォーム・ハート宣言
- 第4回 阪神大震災と私
−幻の広告 - 第3回 手向けの花
- 第2回 さらば銀八先生
−卒業生からの手紙 - 第1回 ガンバレ山古志小の子供達


