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中学受験Q&A      

第53回 聖光学院中学校・高等学校 村山 郁男先のご紹介

せんでん[先生伝言板] 森村学園中等部・高等部 林 宏之先生
村山郁男先生

聖光学院の村山郁男先生のご紹介を受けまして、今号のコーナーを担当させていただくことになりました、森村学園中等部・高等部 教頭の林 宏之と申します。「執筆者の顔が見える文章を」という編集方針にお応えして、「現代日本の教育に対する一考察」と題し、日ごろ私が教育について考えるところを本音で書かせていただこうと思います。
「本音で」とおことわりする以上、反対意見の出にくいような無難な建前論を展開するつもりはありません。万人受けする教育論ほどむなしいものはないと考えるからです。したがって、読者の皆様の賛否は鮮明に分かれることになるでしょう。私個人にとっては危険な試みともいえるのですが、後述するように、そこにこそ私の狙いがあります。

 

教育に関する手厳しい意見

はじめに、教育に関する手厳しい意見を二つご紹介します。

一つ目は、ある評論家の意見です。正確な引用ではありませんが、日本の教育に対しておよそ次のような皮肉を述べていました。
――日本人が「教育」について関心をもつのは、わが子が就学期にあるときだけだ。
就学期を過ぎれば、教育に対する関心はまたたく間に低下してしまう。そのうえ、その関心もわが子の大学進学や就職をすこしでも有利にしたい、という動機が色濃く、「教育とは何か」という本質的な問題がまったく見落とされている。

二つ目は、ある塾の先生からうかがった、私立学校にとっては耳の痛いお話です。
――いろいろな学校の説明会に参加してきた、あるお母さんがこう言ったんです。
「先生、どこの学校にしたらいいか、かえってわからなくなりました。結局、どの学校も人間教育と受験指導はお任せ下さいというだけで、各校の特徴がまったく見えないんですもの。」と言うんですよ。だから私は、「出会った先生の印象がいちばんよかったところにしたらどうですか。」と答えるしかなかったですね。

槍玉に挙げられているのは、「日本人」、「親」、「私学」ですが、お読みになって皆さんはどうお感じになりますか。早くも賛否が分かれるかもしれませんね。それはともかく、これらの意見を総合すれば、およそ次のようにまとめられると思います。

「日本人は、教育というものを、相変わらず『立身出世』といった功利的な
手段としてとらえがちである。一方、私学はそういったニーズに
応えようとするあまり、建学の精神に照らしてたえず教育の本質を
問い直す努力が希薄になっているのではないか。」

 

教育の現状をどう考えるか

こういう意見に対して、私は次のように考えます。現代日本の教育について、「日本人」、「親」、「学校(教師)」だけに責任を押しつけるのは短絡的すぎるが、「教育とは何か」という本質的な問いが軽視されていることは認めざるを得ない、と。
なぜなら、私は、教育の本質にかかわる国民間の合意形成が未熟であるために、現代日本の教育が言いしれぬ閉塞感におおわれていると感じるからです。
もちろん、かつて校内暴力が吹き荒れた時代に比べれば、現在、教育現場の日常は実に平穏でのどかに見えます。規範意識の低下は否めないものの、多くの学校で生徒たちは明るくのびのび生活しています。また、私学で建学の精神を軽んじている学校などはあり得ません。それぞれが他校にない魅力ある取り組みを開花させています。そして、生徒たちは確実に成長を続けています。
しかし、その平穏さの陰で、何かが風化しはじめているような気がしてならないのです。
私のいう閉塞感とは、「本質的な意味で、主役である児童・生徒や教師が、教育現場という舞台から疎外されてしまう空気」を指します。
ありえないはずのことが起こっているということです。

この閉塞感の根本原因はいろいろ指摘できましょう。私はその一つに、日常化した「常識」と「非常識」の転倒があると思います。今日、教育に関して常識とされていることがじつは非常識であり、それに気づかないことが教育をますます困難にしているような気がするのです。いや、かりに気づいても、放置できない現象がどんどん増殖・膨張し、学校も親ももはやどこから手をつければよいのかわからない事態に陥っている……。以上が、現代日本の教育に対する私なりの現状認識です。

 

常識と非常識の転倒

ここで、日常化した「常識」と「非常識」の転倒について、具体例をあげましょう。私には公立の小・中学校に通う息子と娘がおりますが、各教育現場に生じるさまざまな現象に違和感を覚える保護者は少なくないようです。しかし、その解決を学校に訴えてもなんら改善されない……、それが日常化していく過程で、もはや学校に対するあきらめムードが保護者間に漂っている、そんな印象を受けます。
以下に示すのは、私の身辺に聞こえてきた具体例の一端です。

  • 授業参観に行くと私語をかわす児童・生徒がいるが、保護者の面前でもそれをまったく注意しない先生がいる。ある学年では授業妨害をする児童を学校が放置しているので、たまらずに他学区へ引っ越してしまった家庭もある。
  • 行事後の打ち上げと称して、夜間カラオケボックスに出入りする先輩からの誘いに困惑する保護者たちが中学校に相談したところ、「まあ、そんなものですよ」と取り合ってもらえなかった。
  • 小学校でも中学校でも男女混合名簿を採用しているため、出席番号順に区分された班活動では男女比に著しい偏りが出て、児童・生徒が困惑している。等々。

読者の皆様の身辺でも同様の現象が見られると思いますが、いずれにせよ、親も子も教育現場での適応に違和感を覚えるような現状を「常識」として片づけることはできません。そして、このような非常識、すなわち常識の風化現象が日常化しており、誰もがただその現実を受け入れるしかない空気支配を感じるのです。この息苦しさはいったい何なのでしょう。

ただ、誤解のないように付け加えますが、私は子どもたちの通う公立学校やその先生がたを非難しているのでは断じてありません。同業者として、むしろ先生がたの現場での苦労が想像されて、胸が痛むのです。子どもや保護者が違和感を感じるような教育を、心ある先生なら同じように違和感を感じないはずがないと思うからです。教育現場で適応に苦労しているという点では、教師も同様なのです。(もちろんこのような逆境の中で児童・生徒たちをきびしく指導してくださる先生もいらっしゃることを、一保護者として明言しておきます。)
「それなら、なぜすべての先生が信念を貫かないのか? なぜ学校は常識にかなった指導ができないのか?」  そういう問いが聞こえてきそうです。そこが問題なのです。
私はそこに「男女平等の実現」・「基本的人権の尊重」・「個性の尊重」などといった「理念の絶対化」があると考えます。それが現場の教員を金縛りにしているのです。

 

「理念の絶対化」という暴君

※写真はイメージです。

「男女平等の実現」・「基本的人権の尊重」・「個性の尊重」等々。今日、これらの理念を頭ごなしに否定する教員は、私を含め皆無に等しいでしょう。ただ、それらの理念が、結果として教育現場に災いをもたらす事態が生じているのです。この問題を、私は次のようにとらえています。

本来、これらの理念は、あくまでもよりよい教育(目的)を実現するための「手段」にすぎません。つまり、理念は時と場合に応じて適宜利用されるべきであって、その扱いには一定の融通(濃淡)が認められてよいはずなのです。大切なのは、目的である教育の中身がよりよいものになることなのですから。
しかし、今日ではそれが主客転倒しているのです。手段であるはずの理念のほうが「目的」と化してしまったのです。その結果、これらの理念が絶対化し、わずかでも理念に背いたと解釈できるような言動には、手厳しい批判を浴びせられる危険が生じてしまうのです。
あえてきわどい例をあげましょう。たとえば、言葉の意味は文脈の中で決まるものですから、「ばか」という言葉は必ずしも人権軽視につながる言葉の暴力を意味するとは限らず、この上ない励ましを意味する場合もありえます。しかし、指導の現場でその文脈を見届けていない保護者からの抗議の前に、教師側の弁明は通じないのです。ただ指導の文脈から切り離された「ばか」という言葉だけが、美しき理念を踏みにじった証拠として突きつけられるからです。(もちろん、教師がこういう言葉を連発してよいという意味ではありません。)
教育が「理念の完璧な実現」という目的のための手段になり下がり、教師は常にその理念を100パーセント実現しているようにふるまっておかないと、いざという時、容赦なくその過失を追及されてしまう。そうなれば、生徒の叱り方にわずかでもミスがあれば、即「人権侵害」といったレッテルを貼られかねない。(すでに述べたように、ここでいうミスとは本質的な誤りではなく、理念の軽視や否定というこじつけの解釈が成り立つ言動という意味です。つまり、神のように完璧ではない人間の言動のほぼすべてがそれに該当します。)
教師がいざというときの証拠作りに気をとられるようになれば、そこからは人間味が蒸発してしまうでしょう。

おわかりでしょうか。誤解はないと思いますが、ここで私は保護者を責め、教師をかばっているのではありません。私のいう「息苦しさ」とは、理念の扱いに一定の融通を認めようとしない硬直化した空気支配のことなのだ、とそう言いたいのです。
もちろん、この空気支配は公立学校に限りません。程度の差はあれ、私立学校にも及んでいます。というよりも、教育現場のみならず日本社会全体を覆っている、といっても大げさではないでしょう。
理念が手段から目的に変わる。それが暴君のように猛威をふるい、非常識が日常化していく。――昨今、教師やサラリーマンに鬱病患者が激増しているのは、当然の結果といえないでしょうか。理念の絶対化という錦の御旗(?)の前で、教師もサラリーマンも納得のいかない「自己の抑圧」を強いられることが多くなってきているのです。

 

文化に支えられた「常識」を取り戻すこと

いよいよ結論となります。おそらく読者の皆様が期待するのは、「教育の本質」にかかわる見解と、空気支配の解決策でしょう。ただ、後者については、即効性のあるアクションプランを即答できるほど事は容易ではありません。私にお示しできるのは、解決を志すために必要な心構えとでもいうべきものです。

そもそも「教育」とは「ある人間を望ましい姿に変化させるために、身心両面にわたって、意図的、計画的に働きかけること(大辞泉)」を意味します。何にとって「望ましい姿」なのか。それは「国家・社会」と考えるのが第一義でしょう。そして、その根底には、長い間、国民が大切につちかってきた「文化」があると私は思います。
文化とは、ひとことで言えば「昔からみんなが大切にしてきた共通の生き方」のことです。したがって、教育とは「長きにわたって継承してきた文化を共有できる人間(=望ましい姿)」に変化させるための営み、と言えるでしょう。
そして、「みんなが大切にしてきた生き方」から生まれた価値観の結晶が、「常識」なのです。そもそも常識を離れたところに、教育は成立しないということです。
したがって、現代日本の教育が「非常識」に侵食されつつあるとすれば、そこでは教育の基盤を台無しにする「文化破壊」が進行しているということになります。「みんなの生き方」と切り離された教育現場で、児童・生徒や教師が主役の座を追われたり、保護者の多くが違和感を覚えたりするのは当然なのです。

ここに解決を志すために必要な心構えが浮かび上がってきます。美しく崇高な理念は尊重すべきですが、それらを目的化(絶対化)しないこと、あくまでもそれらを手段として適宜「常識」に織り込んでいくこと、これが重要です。裏返していえば、文化に支えられた常識をよりどころにして、もう一度身辺から非常識を追い出していくことです。この「気づき」こそが、私たち教師・親ひいては日本人に求められる心構えだと考えます。もちろん、その輪を広げることは、決して容易なことでありません。しかし、だからといってその「気づき」を離れた地点でどんな対策を講じても、結局は「理念の絶対化」という暴君を降伏させることはできない、そう心得るべきではないでしょうか。

締めくくりに、冒頭に提出した二つの手厳しい意見に立ち返りましょう。私の結論に関連づければ、それぞれを次のようにまとめ直すことができると思います。

  • 「教育」は単なる功利的手段ではなく、その国の文化の継承・発展に直結する重要な営みであり、就学期の子供を持つ親だけでなく国民全体によって支えられるべきものである。
  • 教育の舞台である「学校」は、公・私立を問わず、国の文化の継承・発展に貢献できる人材の育成を通じて、国民の期待に応える必要がある。とりわけ、私学は建学の精神にもとづいて、育成すべき人材のプロフィールをより明確にし、その実現に向けた独自の教育実 践を開発する責務を負う。

持論の背景をなす著書の一部

 

あとがきにかえて 〜「常識」を取り戻すためにお薦めしたい本

以上、私なりの持論を本音で述べてきました。しかし、「教育」については多様な観点が成り立ちますから、自分の意見を読者の皆様に押しつける意図はまったくありません。冒頭で予告したように、さまざまな異論・反論が生まれてよいのです。
私の狙いとは、理念の絶対化がもたらす空気支配の解消にあります。さまざまな立場に身をおく人が、あきらめムードに埋没せず、教育について自由に意見を述べあう環境を作る。それこそが空気の固定化を防ぐ上で有効だと考えるからです。

ただ私たち教師は、立場上、教育についてさまざまな見方があることをまず学び、その中から自分の意見を築き上げる必要があると言えましょう。
その意味で、私の持論も決して私一人のものではありません。私に「常識」の大切さを教えてくださった先人の教えによって育まれたものです。最後に、その人物と著作をご紹介して、結びとします。
その人物とは、評論家・劇作家・翻訳家の福田恆存氏です。表面的な現象に惑わされず、物事の本質を常に追究し続けた希有のリアリストで、日本の知識人の中でもこれほど明晰な頭脳を持った方はそう見あたらないと思います。私の指摘した「理念の絶対化」は、今に始まった問題ではなく、氏が戦後早くからそれが日本に及ぼす危険を論じていたのです。そのような氏の主張の根幹にあったのが「常識にかえれ」という視点でした。
私は氏によって、今日なお理念の絶対化が根強く存在していることを気づかされ、氏の表現力にはとても及ばぬ無力さを自覚しながら、私なりの本音をつづってきた次第です。
なお、氏の著作は決して入手しやすい状況にはありません。現在 麗澤大学出版会が彼の評論集を刊行中ですが、難解な文章も多く高価ですので、ここでは比較的読みやすく、かつ文庫で入手できる二冊をご紹介します。

1) 私の幸福論 (ちくま文庫)

2) 人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

1)→2)の順に読み進む方がよろしいと思います。いずれも「生きるとはどういうことか」という大きなテーマについて滋味あふれる言葉で語りかけてきます。読み進めるうちに、私たちが日ごろ実に多くの常識を失いかけていることに気づかされるでしょう。よく「目から鱗が落ちる」といいますが、氏のたくみなたとえ話に出会うたびに何度も鱗が落ち、いったい自分の目には何枚鱗がついていたのか、と苦笑されるはずです。
これから思春期に入るお子さんと向き合う上でも、改めてご自身の生き方を見つめ直す上でも、ヒントとなる言葉がぎっしり詰まっています。筆者と対話するつもりで、一つ一つの言葉を時間をかけて味わってみてください。また、機会がございましたら、読後感をお聞かせいただければ幸いです。

「私の幸福論」表紙

私の幸福論 (ちくま文庫)
ちくま文庫
福田 恒存著
672円

「人間・この劇的なるもの」表紙

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)
新潮文庫
福田 恒存著
380円

 

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No.54 10/15更新

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